・田鶴浜館は慶長11年に長連龍によって設けられたのが始まりとされ、長く長氏の居館として利用されました。
長氏は鎌倉時代初期に能登大屋荘の地頭として能登に入部した長谷部信連を祖とする氏族で、その後は能登半島を一角を支配する国人領主として勢力を拡大しました。室町時代に入ると能登国守護職の畠山氏に属し、戦国時代には畠山七人衆に数えられました。
畠山氏が衰微すると織田信長に接近し、畠山家中の上杉派と激しく対立、天正5年に上杉派が勝利した事で、長氏一族は信長に援軍要請の為に安土城(滋賀県近江八幡市安土町)に赴いていた長連龍以外の一族の多くが討死や忙殺されています。
連龍は図らずとも長家の家督を継ぐ事となり、織田信長に従って能登国侵攻に功績を挙げ、畠山家中上杉派を一掃した事で復権を果たしています。天正10年に発生した本能寺の変で織田信長が死去すると、七尾城に入った前田利家の与力大名として仕えています。
前田家に仕える立場であるものの、鹿島郡内3万3千石は前田家から支給安堵されてる訳では無く、長連龍が信長から与えられた直領だった為、長く半独立を維持しました。
しかし、時代が下がると前田家家中から問題視され、寛文6年に発生した浦野騒動により、長氏の影響力が著し低下、寛文11年に長氏領は加賀藩の直轄領となり、長尚連が金沢城下に居を遷した為、田鶴浜館は廃されています。
得源寺の境内一円が田鶴浜館の跡地とされ本堂の北東の土塁の一部が残されています。又、周囲には長氏の菩提寺である東嶺寺等、長氏所縁の史跡が点在しています。
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