・勅使館が何時頃築かれたのかは判りませんが発掘調査により12世紀後半頃の遺物が発見されている事からから、少なくとも平安時代末期に存在し、地方豪族の居館だったと考えられています。
館主は不詳で、「バッ憩紀聞」や「北陸路抜書」、「江沼志稿」等に記されている勅使河原四郎左衛門や河原左衛門が主だったと推定されるものの、明確ではないようです。勅使館は南北約180m程度の規模で、主郭を中心に東、南、北側に曲輪を設けていた事が発掘調査により判明しています。
跡地からは主郭北東隅の自然石を積み上げた石積をはじめ、掘立柱建物跡17箇所、柵跡33箇所、土坑跡9箇所、溝跡2箇所、堀跡1箇所、井戸跡1箇所が確認され、12世紀後半から14世紀末迄rに少なくとも6回、建て替えられたと推定されています。
掘立柱建物の最大のものは桁行6間、梁間4間の規模で身舎の四方は庇が設けられ、屋根は板葺か茅葺で、西側が正面だったと推定されています。遺物としては陶磁器、瓦器、土師器、木製品、土錘等が発見されています。
現在、勅使館の跡地の大部分が勅使小学校の敷地として利用され、体育館の脇には建物の基礎の一部が模式復元しています。
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