・安吉城は長享元年に大窪源左衛門尉家長が築いたとされる中世の平城です。
大窪家は山城国愛宕郡嵯峨を本貫としていましたが、平安時代末期の源平合戦が盛んに行われていた頃に加賀国に入部したとされます。家長の頃は少し離れた源兵衛島に本城を構えていましたが、当地まで版図が広がると地名に因み「安吉」姓を掲げています。
家長は手取川沿いを中心に4万石を領する国人領主で、当時の加賀国守護職富樫政親の家老山川三河守の妹を正室に迎える為、富樫家に近かったと思われます。その後、仏教に帰依したようで加賀一向一揆に参加し、河原組8千騎の旗本として重きを成しました。
長享2年には河原組を率いて、加賀国守護富樫政親の本城である高尾城を攻め立てています。天文20年に家長は出家し、了海を名乗ると浄土寺を開創し、自ら住職となり仏門に入っています。
安吉城は安吉氏の家臣で家長の娘婿である窪田大炊介経忠が引き継いでいます。その後、経忠の跡を継いだ窪田大炊允綱盛は本願寺派の加賀国総代として活躍し、天正4年8月2日の一揆衆連名状にも名前が記されています。
しかし、天正8年に行われ織田信長の加賀国侵攻により織田家重臣で北陸地方の司令長官である柴田勝家に攻められ安吉城は落城、綱盛も討死、柴田勢が討ち取った一向一揆指導者19名に名を連ねています。
嘉永5年に編纂された「石川郡安吉古城図」によると、城の規模は東西58間、南北44間で、周囲を3〜6間の水堀で囲い、主郭は15間×12間、馬出も備わっていました。現在は多くが宅地と田畑地となっていますが、南側には土塁の遺構と思われる土盛や、堀跡を利用したと思われる用水路が残されています。
石川県:城郭・再生リスト
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