・打越城は何時頃築かれたのかは判りませんが、戦国時代には桂田中務が城主だった事が知られています。
一方、打越氏が加賀一向一揆の拠点だった加賀国江沼郡打越が発祥との説がある事から、以前は打越氏が利用していた可能性もあります。
織田信長による加賀侵攻が本格化すると北陸地方の司令官だった柴田勝家が当地まで軍を進めました。
桂田中務は加賀一向一揆衆に加担する武将の1人でしたが、勝家が中務を招いて謀殺しようと画策し、それを事前に察した中務は姿を晦まし難を逃れたと伝えられています。
その後、打越城は廃城になったと思われ、城跡には勝光寺が開創されています。
慶長5年に発生した関ヶ原の戦いでは当時の住職である祐賢上人が東軍方の前田利長に与し、西軍方の山口宗永が守る大聖寺城を攻めた際に援軍として僧兵、宗徒を集めて参陣したものの討死したと伝えられています。
打越城は勝光寺境内一円が城域とされ、台地の西端に位置する事から西側から北側にかけては数mの崖地となっています。
特に北側の平面は横矢板を思わせるような複雑に入り込んだ地形になっていて、複郭式の城郭だったと推定されています。
現在も境内の北東部には土塁と思われる土守が残されているそうです。
石川県:城郭・再生リスト
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