・結城館が何時頃築かれたのかは判りませんが、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて足利尊氏に従った下野結城氏が加賀国河内荘の地頭職が与えられ、一族が当時に配された際に築かれた可能性があります。
河内荘の地頭となった結城氏は室町幕府の奉公衆に名を連ね、康正2年の内裏造営には結城左近将監に3貫790文の河内荘段銭が割り当てられています。
南北朝時代初期頃に祖継大智禅師が祇陀寺を開創すると外護者として庇護した関係で、祇陀寺と対立関係だった白山宮加賀馬場とは反目していました。
結城氏はその後、版図を広げたようで、「政所賦銘引付」の文明7年8月16日条によると、「結城鶴市丸 知行分加州山内庄之内」、天文14年6月24日に筆された「室町幕府政所奉公人連署意見状案」によると「結城知行分山内惣庄」と記されており、隣接する山内庄まで支配していた事が窺えます。
延徳3年には結城氏が白山本宮長遣吏職を奪う為に白山本宮と激しい争いとなり結城氏が敗北しています。
天文年間に結城宗俊は牛首村と風嵐村、白山見た越前馬場平泉寺と結び、白山本宮加賀馬場と、その支援を受けた尾添村と対立しましたが、山科言継を味方に引き入れた加賀馬場が朝廷と幕府に訴えそれが聴き入れられた為、加賀馬場方が勝訴しています。
天文14年に結城宗俊は吉岡七郎と尾添村宛てに契状を発布した後、記録に出る事が無くなった事から没落し、結城館も廃されたと推定されています。
結城館は佐野神社境内周辺に築かれたと伝えられており、低部に居館部あったとされます。
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