・得田氏館が何時頃築かれたのかは判りませんが、得田氏の居館として利用されと云われています。
得田氏は斎藤家の一族で藤原姓を掲げていましたが、治承5年に源義仲(木曽義仲)に従った藤原章通が得田保(志賀町徳田)、大町保(羽咋市大町)、甘田保(羽咋市甘田)、神代社(志賀町神代)の地頭に就任した事から地名に因み「得田」姓を名乗ったとされます。
地名としては承久3年9月6日の能登国田数注文に見られる「土田庄内得田村」と記されていたのが初見で、文治4年に立券状とある為、鎌倉時代成立前後に成立した事が判り、得田氏が地頭だったと推定されています。
得田氏は鎌倉幕府の御家人と目され、建長7年には得田章家が家督と地頭職を継承する事を幕府から許可されています。南北朝時代の当主である得田素章は能登国守護職の吉見氏に従い、素章の養子となり得田家の家督を継いだ得田章房は吉見氏の要請を受け能登国に侵攻した桃井直常を撃退し永徳3年には吉見氏頼から小河荘を賜っています。
畠山基国が能登国守護職と七尾城の城主になると得田勘解由左衛門尉章長はその被官となり応永3年に本地行分が安堵されています。
社寺の保護も積極的に行い、応永22年には章長は妙成寺の法華経64枚を開版し、天正7年には徳田秀章が竜門寺に田地100刈・年貢4俵を寄進、菩提寺である徳雲寺には寺領が寄進されています。
畠山家が滅亡すると大身からは没落し、新たな領主となった長連龍の家臣となり、長氏の本拠地である田鶴浜に居を遷している事から、得田氏館も廃止になったと思われます。得田氏館は東80間、南68間、西82間、北72間程の規模を誇り、東西の小川を天然の堀に見立てていたようです。現在も土塁の一部が残されています。
石川県:城郭・再生リスト
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