富木城

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富木城:略データ
・場 所・石川県羽咋郡志賀町八幡
・築城年・南北朝時代
・築城者・富来氏?
・城 主・富来氏、藍浦長門、福富行清
・構 造・平山城
・文化財・−
・指定日・−
・概 要・富木城が何時頃築かれたのかは不詳ですが、南北朝時代の貞和2年/正平元年に富来俊行が近くの木尾嶽城を築いた事から当城も関係があった可能性があります。又、詳細は不詳ですが、岡野氏が居城として利用していたとされます。

一方、永禄11年に畠山義綱が能登国奪還の為に兵を挙げていますが、その中に富木胤盛の名が見られる事から、当城と関係があった可能性があります。

天正4年に越後国守護職の上杉謙信が能登国に侵攻し、能登国守護職の畠山氏の居城である七尾城を攻めましたが、苦戦を強いられた為、戦略変更を余儀なくされ、代わって七尾城の支城が標的となり、富木城も侵攻を受け落城しています。

謙信は家臣である藍浦長門を富木城に配しましたが、天正5年に小田原北条氏が北関東を侵攻した事を受け、謙信も対応せざるを得なくなり、膠着状態に陥った能登戦線から本隊を越後国に引き上げています。すると、畠山家に従っていた能登国の国人領主達が反撃に転じ各地で挙兵の狼煙をあげています。

富木城には畠山家の心身である杉原和泉が総大将として誉田弾正や長十郎右衛門、藤尾左近等から急襲され落城、城将だった藍浦長門は自刃に追い込まれています。天正6年に畠山家の旧臣で織田家に従った長連龍が穴水城攻略の拠点として富木城を利用したとされます。

天正9年に能登国が織田信長の勢力下に入ると、富木城には家臣である福富行清が配されています。福富行清は若くして信長の側近となり、馬廻衆を勤め、畠山氏を慕う多くの国人領主が居た能登国の正常化を行う為に当城に配されたと思われます。

能登国には行清の他、七尾城には菅屋長頼、菅原館には前田利家、福水館には織田家に従った長連龍が配されている事から富木城は4箇所の重要拠点に一つだった事が判ります。しかし、菅屋長頼と福富行清は中国攻めに対し織田軍の再編成の為に呼び戻された事から、程なく富木城は廃城になったと思われます。

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