・富樫館が何時頃築かれたのかは判りませんが、建武2年に富樫高家が加賀国守護職に就任した際に設けられた可能性があります。
富樫氏は鎮守府将軍藤原利仁を祖とする氏族で、2男叙用が土無加之(富樫)郷に配された事から地名に因み「富樫」姓を掲げました。
鎌倉時代初期の承久の乱前後に加賀国での地位が向上し、鎌倉時代末期頃には守護に準じる勢力となり六波羅探題に属しています。>室町時代に入ると足利尊氏に従った事で加賀国守護職に宛がわれ地位が確立しています。
しかし、盤石だった訳ではなく、足利家の一族である斯波氏とは対立し、一時、斯波義種が加賀国守護職を担っています。
その後は加賀国の半国守護として復権したものの、一向一揆衆の台頭に悩まされ、長享2年に富樫政親が一揆衆に敗れ討死しています。その後も元亀元年に富樫晴貞、天正2年に富樫泰俊が相次いで討死し富樫氏は没落しています。
富樫館の跡地は粗 市街地に没している為に遺構は全くありませんが、安政5年に描かれた絵図によると100〜120m四方の規模だったと推定されています。又、発掘調査により、堀は幅が6〜7m、深さが2.5m位の薬研堀だった事が証明されています。
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