宝円寺(金沢市)概要: 護国山宝円寺の創建は天正11年(1583)、前田利家が篤く帰依していた大透圭徐禅師を招き開山したのが始まりと伝えられています。当初は居城である府中城(現在の福井県越前市)の城下に宝円寺を建立し前田家の歴代の菩提寺と定め、天正9年(1581)に利家が七尾城(七尾市)に移ると宝円寺(後の長齢寺)も随行し、さらに天正11年(1583)に金沢城に居城を移すと従っています。
慶長4年(1599)、利家が死去すると宝円寺で葬儀が行われ野田山の前田家墓所に葬られています。加賀藩初代藩主前田利長も深く帰依し、隠居城となった富山城(富山県富山市)や高岡城(富山県高岡市)の城下にも宝円寺を建立し、利長が死去すると高岡の宝円寺は菩提寺となり利長の戒名「瑞龍院殿聖山英賢大居士」に因み寺号を瑞龍寺に改称しています。
金沢の宝円寺は歴代藩主から寺領220石を安堵されるなど庇護された事で寺運は隆盛し、寛永年間(1624〜1645年)は天徳院と共に加賀、越中、能登3国の曹洞宗寺院を統率しました。
金沢の城下に移ってきた当初は現在の兼六園の東隅(金沢城石川門の向かい)に位置していましたが、元和6年(1620)に2世象山和尚の代に現在地に移っています。
寛文9年(1669)には5代藩主前田綱紀によって堂宇、境内が再建整備され、その豪華絢爛の様相から「北陸の日光東照宮」と称されました。宝暦9年(1759)と明治元年(1868)の火災により多くの堂宇が焼失しその後随時再建されています。
宝円寺の境内には利家が慶長4年(1599)2月徳川家康の暴走を止める為、伏見城に乗り込む直前に死を覚悟し自画像を描かせた上、髪を切り遺品としたものを納めた御影堂と御髪堂が建立されています。
北陸三十三ヵ所観音霊場第十三番(御詠歌:御仏の 慈悲をもとめて宝円寺 護国の山に 松風の音)。金沢観音霊場第十八番。山号:護国山。宗派:曹洞宗。本尊:十一面観世音菩薩。
【 宝円寺菩提者:前田利家 】-宝円寺を菩提寺としている前田利家は天文7年(1538年※諸説有り)当主である前田利春の4男として生まれ、幼少の頃から織田信長の小姓として仕え槍の名手だった事から「槍の又左」の異名がありました。信長の側近衆である赤母衣衆の筆頭になるなど次期織田家を支える有力者として一目が置かれましたが信長の異母弟の拾阿弥と対立し殺害、一時織田家から離れる時期がありました。
その後復権し永禄12年(1569)には主君である信長の命により本来継ぐはずのない前田家を継ぐ事になり、代わって兄である前田利久は排斥となり居城である荒子城(名古屋市中川区荒子)を追い出されています。
天正2年(1574)以降は北陸方面軍総司令官の柴田勝家の与力となり利家は府中城を築き居城としています。その後も勝家に従い北陸方面の平定に「尽力し越後の上杉謙信と対しました。天正6年(1578)に謙信が死去すると越後国内で家督争いが起こり上杉家の影響力が大きく後退、織田軍が越中、能登国を掌握し天正9年(1581)には利家に対して能登一国23万石が与えらえ七尾城主となっています。
天正10年(1582)本能寺の変で信長が倒れると後継を巡り羽柴秀吉と柴田勝家の対立が激化、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは当初、利家は勝家方の主力の一翼を担っていましたが、戦の最中に撤退するなど裏切る行為を行った為柴田軍は大敗、その後は秀吉に与し先鋒として大恩のある柴田家滅亡を決定付ています。
戦後、加賀半国(石川郡・河北郡)が加増され居城を金沢城(石川県金沢市)に移し天正12年(1584)の富山の役や天正14年(1586)の九州征伐、天正18年(1590)の小田原の役などに従軍し前田家の地位を確立しました。
慶長3年(1598)には五大老の1人に抜擢され秀吉没後は豊臣秀頼の傳役として大坂城に入りますが、慶長4年(1599)、徳川家康は次ぎの天下人になる為に暗躍し御法度である有力大名同士の婚姻関係を推進し対立関係を深め一触即発となります。
同年、利家死去、享年62歳、戒名「高徳院殿桃雲浄見大居士」、遺言に従い菩提寺である宝円寺で葬儀が行われ、遺骸は野田山(石川県金沢市野田町)に葬られました。
宝円寺(金沢市)は前田家の菩提寺で、利家が府中時代から帰依していた宝円寺(福井県越前市高瀬)の大透圭徐禅師を招いて開山しました。宝円寺は往時、前田家の菩提寺として庇護され寺運も隆盛し豪華絢爛の堂宇は「北陸の日光東照宮」と称される程でしたが、その後の火災により惜しくも焼失しています。
宝円寺の文化財
・ 本堂−明治5年−入母屋、桟瓦葺、軒唐破風向拝−国登録有形文化財
・ 庫裏−昭和2年−木造2階建、切妻、桟瓦葺−国登録有形文化財
・ 山門及び築地塀−明治32年−薬医門、桟瓦葺−国登録有形文化財
宝円寺:上空画像
薬医門を簡単に説明した動画
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